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中将姫伝説

 

 大化改新に功績のあった藤原鎌足の曾孫に藤原豊成という人があった。豊成はその頃朝廷に使えていた紫の典侍という美しい官女を妻に迎えたが、久しく子供が産まれず、そのために夫婦は長谷寺の観音に参篭して祈願をこめ、そして生まれたのが中将姫である。ところが不幸なことに、姫が5才の時、その母が亡くなったので、父豊成は橘諸房という人の娘である照日前を後妻として迎えた。

 姫は生来、輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、9才の時には孝謙天皇の前に召されて、並み居る百官の前で琴を弾いた。天皇は大変感心されて、褒美として玉の簪を賜われた。姫が成長するに従い、和歌や音楽の才能はますます人々の目を見張らせるようになり、15才の時には三位中将の位までいただいた。それ以降、世間ではこの姫のことを中将姫と呼ぶようになった。

 ところが継母の照日前は、こうした姫を次第に憎むようになり、ついには殺そうとまで思い詰めるようになった。その頃、豊成は橘奈良麻呂が起こした反乱に関与したとして、九州に流罪となった。照日前は、この時とばかり、一気に姫を殺そうと計った。しかし、姫はその身の上に同情した一人の家来によって危うく難を逃れたが、更に執拗に迫る追っ手から逃れるために、長谷寺や雲雀山など、あちらこちらをさまよい歩いた。

 

 この時、姫は風の便りに、美濃の国大洞の里の願成寺の噂を耳にした。東大寺大仏建立の折りに、いろいろ霊験があったという話で、特にそのご本尊は、日頃尊信する長谷観音と同じ十一面観世音菩薩であると聞き、姫はその参詣を思い立って、はるばるこの地を訪れたのである。ところが、長い旅の疲れと折からの冷え込みのために婦人病にかかって苦しみ、なかなか治らないので困り果てた姫は、この寺の観音様に救いを求め、一心に祈った。すると不思議なことに、病気はたちまち快癒してしまった。姫は大層喜び、境内に一本の桜を植えて、真心を込めて祈った。『桜よ、お前は私に代わって、いつまでもこの観音様をお守りしておくれ。そしてそのご威徳を美しい花で末永く飾っておくれ。』そして観音様に向かい、『観世音菩薩様、私は今度の病気で、女の身には女しか分からない様々な苦しみがあることを知りました。どうか菩薩のお力で、この桜の花や枝葉を大切に保持する婦人には、あらゆる女性特有の災厄から守り、安産に、育児に、良縁に、夫婦の生活に、女の幸せをいっぱい与えてやって下さい。』 このようにして姫は、90日もの長い間、一心に祈り続けた。長い祈りを終えると、姫は大和の当麻寺で織ったのと同じ蓮糸の曼陀羅を一幅織り上げ、それを当山に納めた。この曼陀羅はその後長く寺の宝物として大切にされていたが、どういう訳があったのか、寛正三年に、尾張国飛保(愛知県江南市)の円福寺に飛んでいった。円福寺の方では、東の空から日輪が出ると同時に曼陀羅が飛んできたというので、日輪山曼陀羅寺と称号を改めた。

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