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願成寺には、次のような伝説が語り継がれています

 

◇ 欽明天皇(540年即位)の時代に、朝鮮の高句麗から、インドの毘首羯魔という彫刻の神様が作ったという十―面観音の小像が、仏舎利とともに朝廷にもたらされました。それから100年余りたって、壬申の乱(672年)が起こり、大友皇子と大海人皇子の間に、皇位をめぐる争いが起こりました。この戦いは皇子が勝利を収めて即位されましたが(天武天皇)、この時美濃の豪族、村国男依が大海人皇子側の勝利に直接かかわる大功を立てました。天皇は男依に数々の恩賞を賜りましたが、その中に、毘首羯摩作の観音小像と仏舎利も含まれていたのです。彼はこの2品を、芥見の里に堂宇を建てて安置し、山間堂と呼びました。(団地ができる以前、現在の岡本球場を中心として南北に伸びる細長い地域を、『山間戸』と呼んでいました。山間堂のあった地点は現在特定できませんが、この辺りにあったと言われています。)◇ 養老5年(721年)、越前の国から泰澄という坊さんがやって来て、山間堂を現在の願成寺のある場所に移して寺を建て、大洞山清水寺としました。

◇ 聖武天皇の御代になって、大仏の鋳造が計画されましたが(743年)、当時としてはやはり大変な事業であったので、どうしても鋳造の技術を持った専門家が必要であり、天皇はそうした人材を捜し出してくるように、一人の家臣にお命じになりました。彼は全国を巡り歩いて懸命に探したけれども、どうしても見つけることが出来ず、大洞山清水寺(願成寺)を訪れて参篭し、観世音菩薩に必死の祈りを捧げました。すると、夢に観世音菩薩が現れて、「明日、西に向かって行け。そこで変わった姿の童子(子供)に会うだろう。それが大仏を造るのに必要な人材だ」と告げられました。翌朝お告げのとおり、西に向かって歩いて行くと、川で牛に水を飲ませている童子に会いました。そこで役人が用件を告げると、童子は黙って河原の砂の上に、大仏の像を描いて見せました。この一見童子のような小男が、日野金丸という仏像鋳造の専門家だったのです。(それ以来、役人が童子を呼び止めた所を「童子」と呼び、牛に水を飲ませていた川を「牛飼川」、大仏の像を描いた場所を「土仏」呼ぶようになりました。)役人は金丸を伴って、奈良の都に帰り、天皇に報告すると、天皇は大層お喜びになって、改めて大仏完成の祈願のため、勅使を大洞山清水寺へ差し遣わされました。やがて、無事大仏が完成し、天皇はこれもみ仏の御加護と感謝なさって、大洞山清水寺に、改めて「如意山願成寺」という勅号を下さり、大僧正行基に伽藍の造営を命じられました。そこで行基はまず1メートルほどの十一面観音橡を造って、今まで祀っていた観音小像と仏舎利をその胎内に収め、これを本尊として七堂伽藍を造営しました。さらにその付近には願成寺の下寺として12の寺を建てました。 

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